3月11日
今でも3年前のことは鮮明に覚えています。忘れようと思っても忘れられません。
当時のことを思い出すと体が震えるし、震災の映像を見るとしばらく気分が落ち込んで何もする気が起きなくなってしまいます。
できることなら思い出したくない…というのが本音です。
子どもたちは今でも当時の映像は見れません。
それくらい大きな出来事でした。
3年前の11日は金曜日。
お昼を食べ、いつも通りに仕事をしていると突然ゴゴゴゴッ…と、下から響くような地鳴り。
「え?」と思った瞬間に激しい縦揺れが…。
直感的に「これは強い揺れがくる」と思いました。
小さい頃に経験した宮城県沖地震と似ていると感じたんです。
すぐに窓を開けて、入口近くの社員に「逃げ道確保して!」と叫んでいました。
直後に立って居られないほどの横揺れが…横揺れというより全方向に飛ばされそうな揺れでした。
小学生の頃に避難訓練で習った、「机の下に入る」なんてとてもできませんでした。
かえって危険。すべての机が飛び跳ねているような状況でした。
建物はミシミシと鳴っているし、前の建物のアンテナは揺れに耐えきれず真っ二つ。
私の目の前をパソコン一式が横切って飛んで行き、棚からはすべての本が落ちてきて冗談ではなく、「もう終わりかも」と。
外も暗くなる頃
雪が降りしきる中、ようやく小学校へ子どもを迎えにいけました。
会った瞬間、子どもがポツリとひとこと。
「みんな生きてるよね?」
みんな大丈夫だと伝えると、崩れ落ちるように泣きだしました。
たぶん待っている間は、ずっと我慢していたんでしょう。
ひとりでとても不安だったんだと思います。
幸い家族も家も無事でした。
でも家に戻った時は真っ暗で床に何が落ちているのかもわからない状態でした。
とても入れる状態ではなかったので、家族で避難所となっている近所の中学校へ行きました。
中学校の体育館へ入ると壁には紅白の幕が。
そう、翌日は宮城県内ほとんどの中学校で卒業式が行われるはずでした。
卒業式の準備を終えた体育館が、一瞬にして避難所へと変わってしまったんです。
数十分おきに緊急地震速報が鳴り余震で揺れる暗がりの中、まったく眠れず一晩を過ごしました。
そんな中、携帯のテレビで目にした津波の映像。
現実に起こっていることだとは全く思えず、信じることができなかったのですが…
翌日、「新聞が届きました。皆さんで回して読んでくださいね」
と渡された河北新報を見て、避難所にいた人たち全員、言葉を失いました。
あれほどの人数がいるのに、異様な静けさがしばらく続きました。
友人・親戚…家は流されたけれど、幸いみんな無事でした。
でも、現場は目を背けてしまうほどの現状。
主人も私も、友人の家へ食べ物を届けたり、手に入った日用品を届けたりしましたが、
惨状を目の当たりにするたびに、どうすることもできない虚しさとやりきれない気持ちでいっぱいになりました。
夢ならば覚めてほしいと毎日、本気で思いました。
毎日必死。
自分自身に余裕もなく、涙すら出ない。しばらくは何も考えられませんでした。
「生きることに精いっぱい」 本当にそんな日々でした。
そして今。
震災の時にちょうど小学校を卒業した子どもは3月で中学校生活を終えます。
将来は「日本だけではなく、世界中の子どもたちの役に立つ仕事がしたい」から、英語の勉強を一生懸命するそうです。
あれから3年。
確かに復興はまだまだ進んではいません。
見ると悲しくなるような風景もたくさんあります。
でも、「たくさん助けられたから自分も誰かの役に立ちたい」と、笑顔で頑張る子どもたちもたくさんいます。
そんな子どもたちを見ていると、私もすごく元気をもらえますし、頑張ろうと思えます。
未来は明るい…そんな風にも感じさせてくれます。
白のガーベラの花言葉は「希望」。
(仙台在住のメンバーの方にご投稿いただきました)