11日~仙石線~母の思い出
Gold Wingでは毎月11日に被災地に寄り添い、あの日を忘れないという思いを込めて記事をアップしていきます。仙石線は東日本大震災で被災しましたが、5月30日、4年2か月ぶりに全線運転再開しました。 <仙石線全線運転再開>復興をつなげる線路(2015年5月31日河北新報>
今回の仙石線全線開通にあたり、仙石線沿線ご出身のお二人の方が「仙石線の思い出」の手記をお寄せくださいました。6月と7月の2回にわたってご紹介させていただきます。
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仙石線の思い出ということですが、高校の3年間、石巻線・仙石線を乗り継いで通っていました。母が、駅のホームまで犬の散歩がてら、見送りにきてくれていたことを一番に思い出します。自宅から駅までは走って2分の距離でしたが、いつもぎりぎりで、乗り遅れることもたびたび。そうすると、母が車で30分ほどかけて、高校まで送ってくれました。
震災後は、仙石線はよく止まったり遅れたりするようになりましたが、私が高校生の頃は滅多にそういうことはなかったと思います。一度だけ、台風か何かの影響だったのか、2時間ほど運休になったことを覚えています。石巻線を降りて、石巻駅でみんなで運転再開を待ってましたが、そこは高校生のこと。このままサボって遊びに行こうとか、家に帰ろうとか、ささやかな悪巧みを考えるのがとても楽しかったです。もちろんそのまま駅で待って、学校にいったわけですが、「2時間さぼれてラッキーだったね。」と、友たちと笑いあいました。
そんな風に、私にとって仙石線は、かけがえのない学生時代の思い出と直結しています。大学生になってからは、帰省するときに利用していましたが、石巻が近づくにつれ、磯の匂いがするんです。はじめのうちは、臭いって思いましたが、だんだん故郷に帰ってきたという懐かしさや安心を感じるようになりました。
今住んでいるところは東北本線沿いなので、仙石線を利用することは滅多にないですし、震災直後の状況も分かりません。仙石線が開通した日のニュースで、新野蒜駅は元の駅から1キロ山側に移動したため、そこまでの道路の整備も間に合ってないと伝えていました。
女川駅も同じでした。周りには何もなくて、ポツンと駅だけ建っていました。電車が通れば、それまであったバスの代行運転もなくなり、仮設住宅から駅までは遠く、かえって不便になってしまったと感じる人も多いのかもしれません。それでも、やはり電車が通るようになったことは、復興へ向けての一歩だと思います。通勤や通学のめども立ちますし、非日常から普通の生活に戻れる大きな一歩だと思います。
被災地といっても、地震のみの被害だった地域と沿岸部では、人々の気持ちも復興の進みもまったく違います。パレードやアイスショーで見て頂いた通り、市内は1年ほどで震災前とほぼ同じ生活ができるまでに復興しましたし、多くの人は普段は震災のことを思い出すこともないと思います。が、実際に津波を見た人は違います。震災から4年たった今でも、パジャマに着替えられなかったり、貴重品をひとまとめにして持ち歩いたり、津波がきたスーパーに買い物にいけない人もいます。
ゆづさんは津波は見ていないと思いますが、お話は聞いてるだろうし、早い時期に空港の周りの景色を実際に見ているはずです。15・16歳の多感な少年にとっては、人生観がまるごと変わってしまうほどの衝撃だったと思います。ノートルダム・ド・パリの解釈に復興の道を重ねていると聞いたとき、もう十分だから、自分のために滑ってほしいとみんなが思ったと思います。それでも、ゆづさんが震災を忘れることはないですよね。
私は震災で実家ごと両親を亡くしています。あまりに突然のことで、私は自分の心を守るために、感情を閉ざしました。何も考えず、1日1日を必死に生きていたと思います。声をあげて泣けたのは半年後。くじけそうになったときは、ゆづさんを思い出し、わずか16才の少年にできて、私にできないわけはないと、自分を奮い立たせました。
そんなピリピリした状況から救ってくれたのもゆづさんでした。「花になれ」をみて、私は一人ではないのだと、私を支え見守ってくれていた家族や親せき、友人に感謝できるようになりました。私の心からの笑顔が、支えてくれた人たちへの恩返しだと思いました。とは言っても、父はともかく、母の死と向き合うことはできませんでした。子供にとって、いくつになっても親は親だし、母親は特別ですよね。
母の死を受け入れられるようになるまで3年かかりました。少しずつ母との思い出を思い出し、懐かしんでいます。なので、今回のお話も、真っ先に思い出したのは、母にまつわることでした。とても懐かしく、温かい気持ちで思い出すことができました。こういう機会を頂けたことに感謝しています。それでも、やはり電車が通るようになったことは、復興へ向けての一歩だと思います。通勤や通学のめども立ちますし、非日常から普通の生活に戻れる大きな一歩だと思います。
とりとめもなく書き連ね、あまり役に立つエピソードではないと思いますが、こういうメンバーがいるということを分かっていて貰えたら嬉しいです。ゆづさんを通して、多くの方が復興に心をよせてくださっていることに感謝・感謝です。私も自分にできることを頑張っていきたいと思います。
白いカーネーションの花言葉は「亡き母を偲ぶ」「私の愛は生きている」~亡くなったお母さんを想う。今でもお母さんを愛しているよ~という意味だそうです。
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