被災地を訪ねて~東松島編~
Gold Wingでは復興支援~MUSUBU~を立ち上げて以来、メンバーの皆様方から貴重なご意見やアイディアをいただいております。
その中から、羽生選手の仙台でのパレードの翌日に語り部タクシーで被災地を訪ねる企画を実施することが出来ました。
利用した語り部タクシーはこちらです。→仙台中央タクシー「語り部タクシー」
復興支援~MUSUBU~のキーワードは
☆忘れない
☆継続
☆自分らしい支援
この度、訪れたのは東松島市と石巻市の沿岸部です。
被災地の今をより多くの方に知っていただきたく、訪問の記録をまとめさせていただきました。被災された方々に寄り添う意味でも、ご一読くだされば幸いです。そして、自分らしい支援についてメンバーの皆様が考えるきっかけになればと思います。
≪東松島編≫
仙台駅前を出発したジャンボタクシーが向かった先は、仙台市の北に位置する東松島市です。
仙台市から松島町までは高速道路で足を進めます。途中、利府町を通過したときに、2012年にNHK杯が開催されたグランディ21も小さく見えました。
グランディ21もまた、震災当時は遺体安置所となった場所です。
運転手さんのご親族もグランディ21に安置されたというお話を聞かせていただき、涙が止まりませんでした。
道中、運転手さん自身の壮絶な体験も聞かせていただきました。娘さん、お孫さんと共に近くの小学校の3階に避難した運転手さん。小学校は2階まで浸水し、水の中にお年寄りが倒れていたのを見たそうです。
運転手さんは現在も仮設住宅にお住まいです。それでもこうして語り部タクシーの運転手として働いていらっしゃるのは、大変な覚悟があってのことだと感じました。これから見る光景から目を背けず、運転手さんの思いを受け止めなければと身が引き締まる思いでした。
タクシーは松島海岸ICで一般道に入り、海沿いの道を北へ向かって走ります。車窓からは仙台市と石巻市を結んでいたJR仙石線の復旧工事の様子を見ることが出来ました。JR仙石線は被害が少なかった観光地松島より先は津波被害で運休になっています。
ジャンボタクシーが最初に止まった場所は、仙石線の無人駅があったという場所でした。一見して何もない荒地。運転手さんの説明を聞かなければ何があったのかわかりません。
震災前、ここには東名駅という小さな無人駅がありました。津波で被害を受けた線路やホームは現在撤去され、「東名」の標識だけが残っています。新しい東名駅は500メートル程内陸に移設されるということでした。
駅跡の周辺は住宅地だったらしく、家の基礎のコンクリートだけが残されていました。
住宅があったと思われる場所に逞しく咲いていた椿。
駅跡の傍を流れる東名運河。
よく見ると、つがいの白鳥が水の上で寄り添っていました。
4月末だというのに北の国に帰らないでいるなんて、まるで私たちを待っていてくれたかのように思えました。
ジャンボタクシーはさらに石巻方面に向かって走ります。次に停車したのはJR野蒜駅の近く、津波被害で廃墟になったかんぽの宿松島です。
遺体が見つかってから立ち入り禁止になり、取り壊しが予定されています。震災前のかんぽの宿の様子はこちらをご覧ください。
その隣には同じく廃墟になっている特別老人ホーム不老園。
不老園では、入園者58人中55人が犠牲になりました。震災前、海岸沿いには松林がありましたが、ほとんどが塩害で枯れてしまっています。
ジャンボタクシーは再び石巻を目指します。途中、大規模な盛土工事の様子を見ることが出来ました。山から掘り出した土を、長いベルトコンベアで盛りたいところまで一気に運んでしまいます。
そこを過ぎてしばらく行くと、ブルーインパルスで有名な航空自衛隊松島基地が見えました。松島基地を過ぎたところで私たちの目に飛び込んできたのは、何十、何百という青い鯉のぼり!ジャンボタクシーを停車していただき、降りてその様子を見学することになりました。まだ準備途中であげ方を調整しています。
青い鯉のぼりプロジェクトは津波で家族4人を亡くした高校生(当時)が、弟(当時5歳)が好きだった青いこいのぼりを自宅跡地に揚げたのが始まりです。同じ年頃の子を持つ親や、全国の高校生らから送られる鯉のぼりは現在600匹にもなっているんだそうです。朝日新聞デジタルに動画と記事が紹介されているのでご覧ください。
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次回、石巻編に続きます。